日本の洋食器 歴史物語
日本の焼き物の約1万年の長い歴史に比べ、
洋食器の歴史は江戸時代、朝鮮の陶工が有田にて磁器製造を始めた頃が黎明期であり、
その後時代が明治へと移行し、日本が積極的に西洋文化を取り入れ始めたと同時に
洋食器の開発が始まりました。
それは真っ白なディナーセットを作ることにあきらめることなく挑戦した
多くの人々の歴史とも言えます。
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HISTORY01
日本の洋食器生産の黎明
明治初期の輸出陶磁器
日本における磁器の発祥は1610年代の有田とされ、有田東端に位置する泉山における良質な陶石の発見が契機の一つとされています。
慶応3年(1867)のパリ万博では有田焼が大量に出品され販売にも成功、明治6年(1873)のウィーン万博でも有田焼が有田の陶石とともに出品され金賞を受賞するなど、欧州で高く評価されたのです。
一方、瀬戸の磁器生産は19世紀初頭に開始され、加藤民吉らが肥前から磁器製造技術を瀬戸に持ち帰ったことによるものと言われています。
HISTORY02
洋食器セットの完成に向けて
安政5年(1858)の日米修好通商条約の締結により開始された対米貿易は、日本の金銀貨とアメリカ側の安価なメキシコ銀で作られたドル硬貨とがその表記額で両替されていたため、良質な金銀が海外に流出していました。
六代 森村市左衛門
(1839-1919)
森村豊
(1854-1899)
当時、御用商人として幕府に出入りした六代森村市左衛門はこの現状を憂い、福沢諭吉から「貿易によって外貨を獲得する」ことを教えられ、この実行のために弟の豊(とよ)を福沢の慶應義塾で学ばせ、明治8年(1875)にアメリカに渡らせたのです。明治9年(1876)、市左衛門は東京・銀座に「森村組」を設立、豊は同年暮れに、ニューヨーク6番街に販売店を開設、日米間の輸出を始めたのです。
一方、日本橋で絵草紙屋「大倉書店」を営んでいた大倉孫兵衛は、錦絵を買い付けにきた市左衛門と横浜で出会い、輸出業に対する市左衛門の姿勢に感銘し森村組に参画することとなりました。
モリムラブラザーズ
ニューヨーク店
当時の森村組は陶磁器だけでなく、漆器、絵画、屏風、金属器、竹製品などあらゆる日本の骨董雑貨を取り扱っていましたが、次第に陶磁器が最も有望な輸出品であることがわかってくると、やがて輸出品の主軸として取扱うようになりました。
また、陶磁器の素地の多くを瀬戸や美濃地域で生産されたことから、明治25年(1892)、名古屋市東区橦木町界隈に森村組名古屋支店を置き、素地集積地として量産の効率化を図ったのです。
HISTORY03
洋食器セットの誕生
明治中期の輸出陶磁器
創業当時の森村組の輸出品は趣向的要素の強い「ファンシーウェア」で、販売は好調でした。これらは壺や花瓶などが主体で、金やイッチン盛り(泥状にした磁器土をクリームの絞器状の道具(一陳:イッチン)で立体的な装飾を施す技法)、瑠璃(ルリ、コバルト)などの様々な装飾を施した豪華な作風でした。森村組はこれらを輸出品に順調な発展を遂げましたが、全ての作品は伝統的な手作業によるもので、1点の完成に3ヶ月以上もかかり量産による事業拡大は不向きでした。そのため、効率よく生産でき事業拡大に適する商品を検討した結果、アメリカの家庭で日常的に使われる洋食器揃の製造に至り、明治27年(1894)からその製造を志したのです。
そのような中、明治35年(1902)、ニューヨークのモリムラブラザーズをイギリスの貿易会社、ローゼンフェルド社の社長が訪問、陳列されていた日本のファンシーウェアに感銘し、製造方法を尋ねたのです。これに孫兵衛が丁寧に対応したことに特別な厚意を示し、白素地開発のための一助としてオーストリアのカールスバット・ヴィクトリア工場の見学を許可したのです。明治36年(1903)、飛鳥井と孫兵衛が訪問、さらにベルリンの粘土工業化学研究所(ゼーゲル研究所)で日本の磁器原料を化学分析してもらい、焼成温度1380-1435℃に適した白色硬質磁器の調合比「天草石54%、蛙目粘土23%、長石23%」を学んで帰国しました。この調合を元に、念願の洋食器製造に適した白色硬質磁器「日陶3・3生地」を完成させたのです。
これを機に名古屋駅に近い則武(現・名古屋市西区)に「日本陶器合名会社」を創設、素地製造工場として操業させたのです。しかし6客揃や12客揃という複数で構成される洋食器揃は、その形状や大きさ、重さなどを全て揃える必要がありました。当時、和食器製造が中心であった瀬戸や美濃の窯屋にとっての洋食器生産は、既成概念を覆されるものでありました。
洋食器生産を志していた森村組の大きな課題は、八寸ディナー皿の完成でした。ディナー皿自体は純白で、肉や野菜などを切り分けるための「まな板」としての平面性が不可欠であったのです。その後の研究で、粘土原料の精製工程を変更、生地の形状を改良した末に、大正2年(1913)に念願であった8寸皿を、その翌年には国産初の洋食器揃「SEDAN」完成させたのです。初出荷した20セットはたちまちに売れ、翌年には2,000セット、翌々年には11,000セット、さらにその翌年は32,000セットと生産が急増、世界の食卓に日本の洋食器という可憐な花が咲き誇ったのです。
創業当時の日本陶器本社工場(1909)
当時の名古屋駅(1906)
日本最初の八寸ディナー皿
名古屋製陶所(現・鳴海製陶)の製品
明治末の名古屋港(1907開港)
飛鳥井は、その後、日本陶器を退社、後に名古屋の貿易商である寺沢留四郎、中村弥九郎らと出会い「帝国製陶所」を立ち上げました。創業時は家内制手工業による陶磁器生産工場として食器類を生産したのですが、後に名古屋の財界人らの協力により欧州製窯業機械を導入、「名古屋製陶所」と改称して日本陶器と比肩される会社に成長させました。
そしてもう一人、8寸ディナー皿を完成させた江副孫右衛門ですが、彼は日本陶器の工場長として重職に就くほか、大倉和親が設立した東洋陶器(現・TOTO)や日本碍子(現・日本ガイシ)、日本特殊陶業の社長を歴任、後に故郷・佐賀県有田町の町長に就くなど様々な分野で活躍し、要人となったのです。
HISTORY04
国際的な競争
元々の陶磁器は実用品としての目的以外に高度な美術的要素を備えたものでもありますが、明治時代以降の日本の陶磁器工業は販売できる商品を作ることに専念していたのです。これは幕末の開国以来、日本が低い経済的背景にあり、外貨獲得のための行為による代償でありました。輸出品として初期に取り扱われていた東洋趣向の強い雑貨類、ファンシーウェア、さらに洋食器揃やノベルティ(人形、置物類)などにおいても欧米で流通していた典型的なパターンを模しており、どのように近付けるかにこだわった要素が強かったと思われます。特に、洋食器揃の輸出は国際的な競争力が必要としており、いかに既存の欧米諸国製品よりも安く売るかが重要であり、コストの削減にも重点が置かれていたのでした。
HISTORY05
日本の洋食器生産の発展
日本硬質陶器(現・ニッコー)のポスター
「山水」洋食器揃
日本硬質陶器(現・ニッコー)
日本の洋食器生産は世界の名窯製品に比肩する白色磁器製品を創出し、量産においてある程度のレベルを維持できる体制を整えることが必要でしたが、同時に、欧米諸国以外に東洋各国へ販路を拡げ、さらに国力増大のために新たな動きを行うことが必要でした。
日本を代表する洋食器量産工場に、金沢で明治42年(1907)に設立された日本硬質陶器株式会社(現・ニッコー)があります。明治初期に、海外から「オランダ焼」と呼ばれた硬質陶器製品が輸入され、異国情緒の漂う実用的な器でした。石川県では九谷焼が伝統的なやきものとして生産されており、新たにもたらされた欧州の肉皿やコーヒー碗は生産者にとって刺激的なものでありました。また、地元では生産に不可欠な長石や陶石、陶土などの原料が産出する鉱山があり、加えて石川県出身の友田安清と吉村又男兄弟、金沢の財界人・林屋次三郎の三人が揃ったことも金沢で本格的な硬質陶器生産工場の設立に繋がったのでした。
HISTORY06
戦前における洋食器生産の黄金期
日本の米国輸出はファンシーウェアの流行とともに発展しましたが、特に米国ラーキン社などの通信販売網が米国内で発達し、そのカタログで日本の洋食器が多く掲載されたのです。中でも洋食器揃「アゼリア」は、ラーキン社から直接日本陶器に発注されたパターンであり、ベストセラー商品でした。これを契機に日本の洋食器需要は多種に拡がり、後に高級品も掲載されるなど洋食器生産技術も成熟し、黄金期を迎えることとなったのです。
初期の日本硬質陶器製(現・ニッコー)
コーヒー碗皿
ラスター釉ベリーセット
日本硬質陶器製(現・ニッコー)
「アザレア」洋食器揃
(1913-1941)
日本陶器(現・ノリタケ)
たとえば、産出量が僅少で高価なコバルトを主原料としたルリ(濃紺)や、金を主原料としたマロン(深紅)などで渕が塗られた上に金彩を施した白色磁器食器の生産が始められ、現在でも高級食器の代名詞として生産されている、牛の骨灰を磁器原料に20%ぐらい含ませたボーンチャイナも開発されました。さらに、アイボリー地、上絵転写、金転写を駆使した「三段貼り」などの手の込んだ製法が導入され、さらに華麗で高級な洋食器が生産されました。また、金そのものを装飾としてふんだんに使った豪華な洋食器揃が作られ、資産家や名家、海外渡航船の一等船室、老舗ホテルなどで供される高級な洋食が出される食卓など、ハイクオリティーな環境で使われる食器として続々と採用されたのです。
HISTORY07
戦争の混乱と技術保存
陶磁器による金属代用品
昭和17年(1942)、第二次世界大戦の勃発によって、最も輸出の多かった米国とは敵対関係となったため、モリムラブラザーズニューヨーク店を閉店しました。さらに戦時中は、窯業を行っていた工場のほとんどが国指定の軍需工場として、耐酸磁器製調合槽や手榴弾などの陶製兵器工場以外に製造用材料となる研削砥石や金属代用品を生産する工場として機能することとなったのです。輸出によって販路を築き上げた洋食器生産は終焉し、陸軍や海軍への軍施設における「国民食器」の生産に移行されたのでした。
HISTORY08
戦争が終結して
国民食器各種
陸軍用食器、海軍用食器
(1943-1945)
昭和20年(1945)8月15日に終戦を迎えますが、敗戦した日本は、都市部は空襲で打撃を受け、洋食器生産工場も破壊されました。また、洋食器生産のための原料、道具、工員たちが不足し、工業復興に困難を極めたのでした。しかし、日本製洋食器に関する品質の高さや美しさ、欧米諸国のものよりも手ごろな価格で購入することができたことから世界中に愛されたこともあり、終戦直後に復旧した工場もあります。名古屋製陶所のあった鳴海の工場は、戦時中は軍需品工場として稼働したが、終戦後には住友軽金属鳴海工場として再び洋食器揃を生産する工場に復興しました。日本陶器の工場もまもなく製品を出荷できるようになりました。(満足の得られる品質までは別裏印)
昭和24年(1949)から昭和46年(1971)までの22年間は1ドル=360円という固定為替レートが実施され、米国向けの輸出が有利となった日本の陶磁器メーカー、輸出商社は主要市場の米国や東南アジア諸国の在庫不足を補う販売で大きく発展しました。
HISTORY09
高度成長期とともに
Pink Rose 洋食器揃(1957)
宮尾商店(現・ミヤオカンパニー)
我が国における洋食器生産事業に大きく影響を与えたこととして、東京五輪の開催があります。開催に向けた多くのホテルやレストラン、新幹線や高速道路といったインフラが整備され、同時に磁器製洋食器の内地流通が活発化したのです。航空事業においては続々と国際線が就航し、欧州の一流レストラン日本店が続々と開店するなど、食事スタイルの洋食化も急速に進み、国内向けの洋食器需要が増大しました。さらに、米国におけるプレミアム商品(スーパーや銀行、ガソリンスタンドなどの景品)として日本の洋食器が採用され、一大ブームを巻き起こしたのです。
HISTORY10
変動為替制度と輸出品への影響
昭和46年(1971)には変動為替レートが実施され、一気に円高が進んだことで、北米向けの洋食器揃の出荷額が10年前のレベルまでに落ち込みました。
鳴海ボーンチャイナ
ニッコーボーンチャイナ
ノリタケボーンチャイナ
昭和49年(1974)、中東戦争に起因したOPEC諸国の石油戦略により石油価格が急騰したことで、生産者は更なる苦境に立たされました。この後、多くの生産者は北米に向けた洋食器販売を取りやめ、日本国内に向けた商品へと生産移行したのです。
HISTORY11
一般家庭への普及
ノリタケ100周年記念商品
「四季彩舞曲」
昭和30年代後半は、国内需要の増大と団地等の機能的な住宅が発達によって生活様式が大きく変革した頃でした。一般家庭には車やカラーテレビ、様々な電化製品とともにインスタント食品が普及し、洋食を食べることができ、洋食器の新たな販路としての一般家庭が注目されるようになりました。全ての器の大きさや形状が揃っている洋食器は収納性に優れていたため、団地等の狭い空間に適していたのです。
さらに、一般家庭の食卓がちゃぶ台からダイニングテーブルへと変わっていた頃であり、洋食器を販売する環境が整っていたのです。
鳴海ボーンチャイナ
「クロン・ド・ミューズ」
ニッコー
テーブルセンチュリーチャイナ
ミヤオ硬質陶器
「シルク・フラワーズ」
現在においては、生活や流行の多様化とともに最新機械の導入などにより多種大量に生産された器に囲まれ、一枚の器に対する注目度が薄れたのも過言ではありません。さらに、外国製の衣料、食物が当たり前のようになった様に、今や発展途上国の製品の質が向上され、日本製品の生産が苦戦を強いられています。
現在もこれからも日本の洋食器に誇れるものは何だろうか。先人たちの熱い情熱と共に国力を示し続けてきた「世界に愛された日本の洋食器」をもう一度見つめ直し、今後も生産が継続される日本の洋食器産業をささやかながら応援していきたい。それが私達の気持なのです。